我が家の家電製品
この所我が家の家電製品が次から次へと故障し買い換えを強いられている。昨年は掃除機とテレビが壊れ、今年は炊飯器、洗濯機、エアコンと続いた。ところが今日電子レンジもついにダウンしてしまったのだ。致し方なく早速近くの量販店で新しい物を買い求めて来た。何れの家電製品も1995年前後に購入した物が殆どであるが残るは冷蔵庫だけが生き続けている。時間の問題で恐らく来年には買い換えを強いられそうだ。
電気代を考えれば最近の家電製品は省エネが進み従来品に比べ可成り電気代が安くなるので得であるとのこと。理屈では分かるがこれ程一気に壊れてしまうのはメーカーの思惑に乗せられているようで腹が立つ。
所で今日電子レンジを買い求めた際店員から「メーカー保証は一年ですが更に当店で有料にて5年保証を追加することが出来ますが如何いたしますか」と聞かれた。つい私も「1年過ぎたら壊れるような製品をメーカーは製造しているのですか。普通1年経って壊れるような物は製造不良品と言いますよ!」と言い返したら「すみません。おっしゃるとおりです」の返事が返ってきた。きっとこの店員さんは真面目で本人も矛盾を感じていたのだろうか。
しかし早く壊れるのも困りものだが余り長く壊れないのも問題のようだ。既に石油ヒーターや扇風機のように長く使用し続けたことで事故を起こし社会問題化している。適正な耐用年数への知恵が必要なのかも知れない。
電気代を考えれば最近の家電製品は省エネが進み従来品に比べ可成り電気代が安くなるので得であるとのこと。理屈では分かるがこれ程一気に壊れてしまうのはメーカーの思惑に乗せられているようで腹が立つ。
所で今日電子レンジを買い求めた際店員から「メーカー保証は一年ですが更に当店で有料にて5年保証を追加することが出来ますが如何いたしますか」と聞かれた。つい私も「1年過ぎたら壊れるような製品をメーカーは製造しているのですか。普通1年経って壊れるような物は製造不良品と言いますよ!」と言い返したら「すみません。おっしゃるとおりです」の返事が返ってきた。きっとこの店員さんは真面目で本人も矛盾を感じていたのだろうか。
しかし早く壊れるのも困りものだが余り長く壊れないのも問題のようだ。既に石油ヒーターや扇風機のように長く使用し続けたことで事故を起こし社会問題化している。適正な耐用年数への知恵が必要なのかも知れない。
オスカー・ピータソンが逝く(2)
オスカー・ピータソンの死亡広告が12月25日付け日経新聞の夕刊に掲載されていた。その中に以下のような表現があった。「・・・・・1950年代に白人が主流だった欧米の音楽界で成功を収めた数少ない黒人音楽家の一人・・・・・」
これを読んでとても違和感を感ずるのだが如何であろうか。
白人が主流だった欧米の音楽界とはどんな音楽界の事を指すのだろうか。クラシックをも含めた広義での世界か、あるいはジャズという一つの狭義なジャンルの世界か、どちらだろうか。ジャズとクラシックを同じ土俵の上で比べるのは余りにもナンセンスであり新聞記者であれば其処まで幼稚なことはしないであろうと思うのだが。しかしオスカーピーターソンはジャズに興味のある人ならだれでも承知しているジャズピアニストである。ジャズ以外の世界で彼が活躍していたとは思えないし記憶もない。
1950年代の音楽の世界で言えばジャズを含めたポップスが主流を占めその中でモダンジャズそのものが新しい時代の音楽として流行りだした頃である。今までのラグタイムやデキシーランドそしてスウィングのダンス音楽から更に進歩させ従来の型にはまった音楽理論から離れコードという記号化した楽譜によって自由に即興的に演奏するスタイルを生み出したのは黒人ミュージッシャンでありその代表がチャーリーパーカーやバドパウエル、ジョンコルトレーン、マイルスデービスと言ったいずれも黒人ミュージッシャンである。当時のモダニズムとしての新たなジャズ(モダンジャズ)の誕生である。
少なくともジャズの世界でこの時期に白人が主流であったとは思えない。スウィング全盛の時期であればグレンミラーやベニーグッドマンと言った白人バンドが名を馳せたがその時期でさえも黒人バンドであるデュークエリントやカウントベーシーと言った黒人バンドが活躍している。確かに当時は黒人差別が激しく黒人バンドが活躍できる場は限られていたがむしろ黒人ミュージッシャンが若い白人達に受け入れられ次第に差別化を開放させる方向へ少しずつではあるが向かわせた功績は高い。
1950年代に白人がモダンジャズの世界で名を馳せた人は思い浮かばない。後になってクールジャズやウエストコーストジャズの世界では黒人に対抗してチェットベーカーやリーコニッツのような白人ミュージッシャンが多く世に出たがやはりそのスタートは黒人である。
ジャズは元を正せば黒人のブルースから発展してきた物であると言われている。つまり黒人的ブルース感があってこそジャズがジャズとして成立するのかも知れない。日本人にジャズが分かるはずがないと言った黒人ミュージッシャンがいると聞く。根拠は此のブルースにあるのかもしれない。でありながらも現代では異人種(日本人やヨーロッパ人など)によるジャズミュージッシャンは多数輩出している。彼らはやはり当初ブルースというものに自らの自己矛盾を感じながら自国の環境の中でブルース感覚とは何かを悩みながら努力してきているのである。そのように考えると少なくともジャズの世界では現代においてもやはり黒人が主流であろう。新聞の「白人が主流であった」とは何を意味するのか私には理解できない。
ただ一つ言えることは1950年代の日本は欧米特にアメリカから伝わってきた音楽は全てジャズと形容していた事実がある。もちろん当時はまだ戦後でありアメリカからの音楽が民主主義の象徴のようなとらえ方であった。カントリーもハワイアンもポップスも全てジャズとして一括りされていた時代であったのだ。江利チエミや雪村いずみが唱う西洋的(?)なポップスは全てジャズであり笠置シズ子のブギでさえもジャズであったのだ。そう考えれば日本人として考える当時の世界のジャズ音楽界は欧米から移入された音楽を中心として白人が主流であったと言えなくもない。しかし今の時代に其処まで時代錯誤をする人がいるだろうか。
重箱の隅をつっつくようだがこの新聞記事にはどうしても疑問を感じ得ないのである。
これを読んでとても違和感を感ずるのだが如何であろうか。
白人が主流だった欧米の音楽界とはどんな音楽界の事を指すのだろうか。クラシックをも含めた広義での世界か、あるいはジャズという一つの狭義なジャンルの世界か、どちらだろうか。ジャズとクラシックを同じ土俵の上で比べるのは余りにもナンセンスであり新聞記者であれば其処まで幼稚なことはしないであろうと思うのだが。しかしオスカーピーターソンはジャズに興味のある人ならだれでも承知しているジャズピアニストである。ジャズ以外の世界で彼が活躍していたとは思えないし記憶もない。
1950年代の音楽の世界で言えばジャズを含めたポップスが主流を占めその中でモダンジャズそのものが新しい時代の音楽として流行りだした頃である。今までのラグタイムやデキシーランドそしてスウィングのダンス音楽から更に進歩させ従来の型にはまった音楽理論から離れコードという記号化した楽譜によって自由に即興的に演奏するスタイルを生み出したのは黒人ミュージッシャンでありその代表がチャーリーパーカーやバドパウエル、ジョンコルトレーン、マイルスデービスと言ったいずれも黒人ミュージッシャンである。当時のモダニズムとしての新たなジャズ(モダンジャズ)の誕生である。
少なくともジャズの世界でこの時期に白人が主流であったとは思えない。スウィング全盛の時期であればグレンミラーやベニーグッドマンと言った白人バンドが名を馳せたがその時期でさえも黒人バンドであるデュークエリントやカウントベーシーと言った黒人バンドが活躍している。確かに当時は黒人差別が激しく黒人バンドが活躍できる場は限られていたがむしろ黒人ミュージッシャンが若い白人達に受け入れられ次第に差別化を開放させる方向へ少しずつではあるが向かわせた功績は高い。
1950年代に白人がモダンジャズの世界で名を馳せた人は思い浮かばない。後になってクールジャズやウエストコーストジャズの世界では黒人に対抗してチェットベーカーやリーコニッツのような白人ミュージッシャンが多く世に出たがやはりそのスタートは黒人である。
ジャズは元を正せば黒人のブルースから発展してきた物であると言われている。つまり黒人的ブルース感があってこそジャズがジャズとして成立するのかも知れない。日本人にジャズが分かるはずがないと言った黒人ミュージッシャンがいると聞く。根拠は此のブルースにあるのかもしれない。でありながらも現代では異人種(日本人やヨーロッパ人など)によるジャズミュージッシャンは多数輩出している。彼らはやはり当初ブルースというものに自らの自己矛盾を感じながら自国の環境の中でブルース感覚とは何かを悩みながら努力してきているのである。そのように考えると少なくともジャズの世界では現代においてもやはり黒人が主流であろう。新聞の「白人が主流であった」とは何を意味するのか私には理解できない。
ただ一つ言えることは1950年代の日本は欧米特にアメリカから伝わってきた音楽は全てジャズと形容していた事実がある。もちろん当時はまだ戦後でありアメリカからの音楽が民主主義の象徴のようなとらえ方であった。カントリーもハワイアンもポップスも全てジャズとして一括りされていた時代であったのだ。江利チエミや雪村いずみが唱う西洋的(?)なポップスは全てジャズであり笠置シズ子のブギでさえもジャズであったのだ。そう考えれば日本人として考える当時の世界のジャズ音楽界は欧米から移入された音楽を中心として白人が主流であったと言えなくもない。しかし今の時代に其処まで時代錯誤をする人がいるだろうか。
重箱の隅をつっつくようだがこの新聞記事にはどうしても疑問を感じ得ないのである。
オスカー・ピーターソンが逝く
オスカー・ピータソンが亡くなったとのニュースを今朝耳にした。82歳とのこと。私が初めて聴いたオスカーピーターソンの演奏は40年程前にラジオから流れてきた「サテンドール」と言う曲であった。以前はカントリーばかりに興味を持ちジャズは偶に聴く程度であったが、その時聴いたオスカー・ピーターソンのピアノ演奏が今まで聴いたことのないスイング感を感じそのモダンな演奏に感銘を受けた。そのためかそれ以降、私の所有LPレコードにはオスカーピーターソンのレコードが最も多い。そんなレコードの中でフランスのSalle Pleyelという有名なコンサートホールで行われたライブ・レコードを聴いているとこれぞまさしくジャズ演奏だと思えてくる。演奏する側と聴く側とが一体化し互いの息遣いが聞こえてくるような感じさえする。私の最も好きなレコードの一枚である。ビバップ、ハードバップ、モード、あるいはフリーと続くジャズの流れの中でその歴史と共に生き抜いてきたジャズメンが此の世を去るのは余りにも淋しい。心より冥福を祈りたい。合掌

OSCAR PETERSON ET JOE PASS
A SALLE PLEYEL
Pabro Records 2625-705

OSCAR PETERSON ET JOE PASS
A SALLE PLEYEL
Pabro Records 2625-705
2枚組のレコードでギターのJoe Passもノリに乗った演奏をしている。一枚目のB面にはメドレーでDuke Ellingtonの曲を5曲続けて演奏している(Take The "A" Train、 In A Sentimental Mood, SatIn Doll, Lady Of The Lavender Mist, Things Ain't What They Used To Be)。彼はDuke Ellingtonを敬愛していたのだろう。
我が家のクリスマス・イルミネーション
この時期我が家では毎年クリスマス・イルミネーションで庭を明るく飾っている。決して派手ではないが毎年ながら寒空の元とても奇麗で暖かさを感じさせてくれる。米国駐在時代に家々で行われる飾り付けが異郷文化の楽しさを経験させてくれ、彼らに習い我が家でも隣近所に合わせてイルミネーションを施し続けていた。帰国後も子供達にせがまれて毎年続けてきた。しかし子供達も大人になり親も老齢化し飾り付けが難しくなってきた。年寄りには高所の作業は危険であり今年が最後の飾り付けになりそうだ。
ところでいつもながらの自己矛盾だがキリスト教徒でもない日本人が何故クリスマスなのか不思議でならない。クリスマスが日本の歳時として受け入れられて久しい。それも日本の環境に合わせて日本人としての文化に変容させてしまっている。キリスト教徒からすればクリスマスは一年の中で神聖なるもので静かに宗教的精神の中で祝う行事であるはずだ。東洋の新年と同じく一年の中で最も重要な行事であり家族が共に集い静かに祝う。米国ではクリスマスイブ(24日)やクリスマスの当日(25日)はほとんど人出がない。この時期に旅行したりしているのは多くはキリスト教徒以外の人種で観光地では多くの東洋人を見かける。我が家もその類いでクリスマスの時期はいつも旅行を楽しんでいた。
かつて昭和30年代頃クリスマスイブの銀座界隈では酔い潰れた男どもが千鳥足で闊歩しクリスマスは楽しく酒を飲む日ととらえていた。現在ではさすがにその光景は見られなくなったが逆に若い人たちがイブに好きな彼や彼女とロマンチックな夜を過ごし一年の中で彼らにとっては最も重要な日になっているとのこと。
私たちの結婚式は教会で行った。息子の結婚式も教会だった。既に日本人には宗教とは関係なく教会は結婚式の会場と化している。ロスアンゼルスのある有名な教会は日本人を当て込んで積極的に営業活動を行い稼いでいる。欧米文化の格好良さがいつのまにか日本文化にとけ込み宗教を顧みることなく日常化された文化に融合しているのかもしれない。何か矛盾を感じざるを得ないがグローバルな世界ではこれも必然なのだろう。しかし考えてみると12月25日は本来キリスト教とは関係なく古くは冬至を祝う行事であった。後にキリスト教徒がイエスキリストと結びつけて降誕祭として現在のクリスマスに変化したものだ。そう思えば矛盾も消えるかもしれない。
そういえば息子の結婚式のバックグラウドミュージックはジャズにアレンジされたクリスマスソング集であった。同じジャズでも親の選曲とは全く方向が異なっておりやはり若者の方が一枚上手のようだった。
ところでいつもながらの自己矛盾だがキリスト教徒でもない日本人が何故クリスマスなのか不思議でならない。クリスマスが日本の歳時として受け入れられて久しい。それも日本の環境に合わせて日本人としての文化に変容させてしまっている。キリスト教徒からすればクリスマスは一年の中で神聖なるもので静かに宗教的精神の中で祝う行事であるはずだ。東洋の新年と同じく一年の中で最も重要な行事であり家族が共に集い静かに祝う。米国ではクリスマスイブ(24日)やクリスマスの当日(25日)はほとんど人出がない。この時期に旅行したりしているのは多くはキリスト教徒以外の人種で観光地では多くの東洋人を見かける。我が家もその類いでクリスマスの時期はいつも旅行を楽しんでいた。
かつて昭和30年代頃クリスマスイブの銀座界隈では酔い潰れた男どもが千鳥足で闊歩しクリスマスは楽しく酒を飲む日ととらえていた。現在ではさすがにその光景は見られなくなったが逆に若い人たちがイブに好きな彼や彼女とロマンチックな夜を過ごし一年の中で彼らにとっては最も重要な日になっているとのこと。
私たちの結婚式は教会で行った。息子の結婚式も教会だった。既に日本人には宗教とは関係なく教会は結婚式の会場と化している。ロスアンゼルスのある有名な教会は日本人を当て込んで積極的に営業活動を行い稼いでいる。欧米文化の格好良さがいつのまにか日本文化にとけ込み宗教を顧みることなく日常化された文化に融合しているのかもしれない。何か矛盾を感じざるを得ないがグローバルな世界ではこれも必然なのだろう。しかし考えてみると12月25日は本来キリスト教とは関係なく古くは冬至を祝う行事であった。後にキリスト教徒がイエスキリストと結びつけて降誕祭として現在のクリスマスに変化したものだ。そう思えば矛盾も消えるかもしれない。
そういえば息子の結婚式のバックグラウドミュージックはジャズにアレンジされたクリスマスソング集であった。同じジャズでも親の選曲とは全く方向が異なっておりやはり若者の方が一枚上手のようだった。
新宿御苑の紅葉と黄葉
息子の結婚式の後ホテルで一泊し翌朝新宿御苑を訪れた。何年振りの新宿御苑だろうか。子供の頃に訪れて以来であろう。当日は日曜日であったためか大勢の訪問者が来ていた。それでも公園の広大さか混雑している感じはない。紅葉が盛りを迎え公園全体に華やかさを演出しているようだ。特に銀杏の落葉が地面に黄色い絨毯を敷き詰めたようでとても美しく晩秋の風情を感じさせてくれた。子供達は落ち葉で戯れ大人達は盛んにカメラで美しい紅葉の写真撮影に勤しんでいる。私も負けじと盛んにカメラのシャッターを押し続けていた。
来年桜の季節に是非また訪れてみたいと思う。

来年桜の季節に是非また訪れてみたいと思う。

賞味期限や消費期限の科学的根拠は?
船場吉兆や赤福といった老舗の食品会社が賞味期限や消費期限の偽称や付け替えが次から次と発覚し食の安全が脅かされているとして世間を騒がせている。最近ではあのマクドナルドでさえも同じようなことをしていたと報道されていた。
自ら決めた事を守らず世間に嘘をつく行為はまさしく企業倫理の欠如であり断じて許すべきではない。バブル崩壊後の失われた10年間に企業は生き延びるために創意工夫と徹底したコスト削減を図りあらゆる努力をしながら今日を築いてきたはずである。その結果が世間に嘘をついてでも何とか利益を上げようとする企業体質が生まれたとすればまさしく本末転倒である。
ところで、テレビやマスコミの報道はあたかも食の安全が損なわれているが如くの論調が目立つが賞味期限とか消費期限とは何なのだろうか? 素朴な疑問がある。 賞味期限や消費期限なるものが科学的根拠を持って設定されているのだろうか。私には科学的根拠があるとは思えないのだ。
安全は科学的根拠をもって論ぜられるべきであり安心は精神的な心の問題であり安全を根拠としての信頼度の問題である。企業が科学的根拠もなく勝手に決めた賞味期限や消費期限は企業側の消費者に対する受け狙いのような物で殆ど科学的な意味を果たしていない。曲がったキュウリや形の悪い野菜では消費者が買ってくれないなどと勝手に企業が決めてしまったことと何か共通点がある。
賞味期限や消費期限が多少過ぎたからと言って食中毒を起こすわけではあるまい。強いて言うなら鮮度の問題であろう。人は過去の長い歴史の中でどういう物を食してはいけないかは既に良く承知をしており腐っているような物は決して口には入れない一種の本能を有している。人間の体は本能的に危険を回避する術を承知しているのだ。最近の食品企業の不祥事は法令遵守(コンプライアンス)の問題として追及されるべき事は明らかだが食の安全を語る以前に賞味期限や消費期限のあり方へも言及されるべきではないだろうか。
かつて米国で生活していた当時日本食品の多くは賞味期限切れのものが陳列され何の疑問も挟まず購入し食していた。唯、さすがに消費期限を数年も過ぎた菓子類はどことなく味が変化し美味しくはなかったがそれよりも遠く離れた海外で日本食を食せる事にむしろ有り難さを感じ賞味期限や消費期限が過ぎていることなど気にもしていなかった。食の安全を論ずるのであれば賞味期限や消費期限の科学的根拠を明らかにして欲しい。
余談だが人間は安全が当たり前と思っているがこの自然界の中に安全という現象は存在しない。危険という現象だけが存在しているのだ。人間は長い歴史の中でその危険を如何に防ぐかに腐心し努力してきた。その成果として今日の安全が確保されているのだ。それでも100%安全などあり得ない。仮に賞味期限や消費期限の設定が食品安全への努力の産物だとすればこんなに世間を騒がせる結果には成らないはずであろう。それにしても勝手に決めた期限を、過ぎたからと言って廃棄にしてしまうのは余りにももったいない。
自ら決めた事を守らず世間に嘘をつく行為はまさしく企業倫理の欠如であり断じて許すべきではない。バブル崩壊後の失われた10年間に企業は生き延びるために創意工夫と徹底したコスト削減を図りあらゆる努力をしながら今日を築いてきたはずである。その結果が世間に嘘をついてでも何とか利益を上げようとする企業体質が生まれたとすればまさしく本末転倒である。
ところで、テレビやマスコミの報道はあたかも食の安全が損なわれているが如くの論調が目立つが賞味期限とか消費期限とは何なのだろうか? 素朴な疑問がある。 賞味期限や消費期限なるものが科学的根拠を持って設定されているのだろうか。私には科学的根拠があるとは思えないのだ。
安全は科学的根拠をもって論ぜられるべきであり安心は精神的な心の問題であり安全を根拠としての信頼度の問題である。企業が科学的根拠もなく勝手に決めた賞味期限や消費期限は企業側の消費者に対する受け狙いのような物で殆ど科学的な意味を果たしていない。曲がったキュウリや形の悪い野菜では消費者が買ってくれないなどと勝手に企業が決めてしまったことと何か共通点がある。
賞味期限や消費期限が多少過ぎたからと言って食中毒を起こすわけではあるまい。強いて言うなら鮮度の問題であろう。人は過去の長い歴史の中でどういう物を食してはいけないかは既に良く承知をしており腐っているような物は決して口には入れない一種の本能を有している。人間の体は本能的に危険を回避する術を承知しているのだ。最近の食品企業の不祥事は法令遵守(コンプライアンス)の問題として追及されるべき事は明らかだが食の安全を語る以前に賞味期限や消費期限のあり方へも言及されるべきではないだろうか。
かつて米国で生活していた当時日本食品の多くは賞味期限切れのものが陳列され何の疑問も挟まず購入し食していた。唯、さすがに消費期限を数年も過ぎた菓子類はどことなく味が変化し美味しくはなかったがそれよりも遠く離れた海外で日本食を食せる事にむしろ有り難さを感じ賞味期限や消費期限が過ぎていることなど気にもしていなかった。食の安全を論ずるのであれば賞味期限や消費期限の科学的根拠を明らかにして欲しい。
余談だが人間は安全が当たり前と思っているがこの自然界の中に安全という現象は存在しない。危険という現象だけが存在しているのだ。人間は長い歴史の中でその危険を如何に防ぐかに腐心し努力してきた。その成果として今日の安全が確保されているのだ。それでも100%安全などあり得ない。仮に賞味期限や消費期限の設定が食品安全への努力の産物だとすればこんなに世間を騒がせる結果には成らないはずであろう。それにしても勝手に決めた期限を、過ぎたからと言って廃棄にしてしまうのは余りにももったいない。
結婚式のバックグラウンド・ミュージックにジャズを
LPレコードのCD化を進めている。LPレコードを聞くには多くの手順がありCDに比べ面倒である。アナログの音の素晴らしさはマニアの間ではよく言われているが理屈で理解していても我がシステムではその違いを聞き分けることは難しい。むしろ単純に音楽を聴くと言うことであればCD程便利な物はない。であれば所蔵しているLPレコードを全てCD化してみようと今年の我がプロジェクトとしてスタートさせたが遅々として進んでいないのが現状である。
理由は簡単である。一枚のLPレコードをコンピュータに取り込んでCD化するにはそれなりに時間がかかるからである。コンピュータで簡単にカット&ペーストして一気にというわけにはいかない。LPレコードをA面B面を含めて全曲聞き終えない限り作業は完了しない。更にレコードのアナログデータをデジタル化しても通常のCDと同じようにするにはコンピュータ上で一曲一曲を切り離し曲単位で区別する作業がある。
厄介なのはレコードがカビやたばこのヤニ等で汚れている場合が多くプレイヤーにかける前にレコードそのものを丁寧にクリーニングしなければならない。これが結構大変な作業だ。水で浸したガーゼでレコード面を拭きその後更に水道水で水洗いをする。こうしないとプチパチとイヤな音がスピーカーから聞こえてくるし挙げ句はレコード針を痛める結果にも成る。作り上げるCDも化粧が必要でLPレコードのジャケットを写真撮影し加工してCDケースやラベルとして見映え良く印刷をする。この一連の作業が有るため一日に何枚も出来るわけではない。
そんな時に近々結婚を予定している息子から結婚式のバックグラウンド・ミュージックにジャズを使いたいと言ってきた。所蔵レコードから良さそうな曲を選定して欲しいとのリクエストである。それならばと労を惜しまず喜んでCD化に拍車を掛けては見たもののはたと疑問が生じてきた。息子の言うジャズとはどんな物を指すのだろうか。マイルデービスやチャーリー・パーカーはたまたジョン・コルトレーンではあるまい。結婚式にビバップではあまりにも重すぎるし不似合いである。
そんなこんなでここ数週間の間に何枚のLPレコードを聴いたであろうか。少しでも若者向きにとそれなりに選曲をしてCDに収めてはみたが果たして息子が気に入るかどうか疑問である。年寄りには若者の嗜好を斟酌するのは難しい。 それでも自分で選曲した曲はこの上なく素晴らしい物だと思っている。何回聴いても飽きが来ない。
さて、息子は私が選曲した中からどんな曲を選ぶだろうか。結婚式当日が楽しみだ。
理由は簡単である。一枚のLPレコードをコンピュータに取り込んでCD化するにはそれなりに時間がかかるからである。コンピュータで簡単にカット&ペーストして一気にというわけにはいかない。LPレコードをA面B面を含めて全曲聞き終えない限り作業は完了しない。更にレコードのアナログデータをデジタル化しても通常のCDと同じようにするにはコンピュータ上で一曲一曲を切り離し曲単位で区別する作業がある。
厄介なのはレコードがカビやたばこのヤニ等で汚れている場合が多くプレイヤーにかける前にレコードそのものを丁寧にクリーニングしなければならない。これが結構大変な作業だ。水で浸したガーゼでレコード面を拭きその後更に水道水で水洗いをする。こうしないとプチパチとイヤな音がスピーカーから聞こえてくるし挙げ句はレコード針を痛める結果にも成る。作り上げるCDも化粧が必要でLPレコードのジャケットを写真撮影し加工してCDケースやラベルとして見映え良く印刷をする。この一連の作業が有るため一日に何枚も出来るわけではない。
そんな時に近々結婚を予定している息子から結婚式のバックグラウンド・ミュージックにジャズを使いたいと言ってきた。所蔵レコードから良さそうな曲を選定して欲しいとのリクエストである。それならばと労を惜しまず喜んでCD化に拍車を掛けては見たもののはたと疑問が生じてきた。息子の言うジャズとはどんな物を指すのだろうか。マイルデービスやチャーリー・パーカーはたまたジョン・コルトレーンではあるまい。結婚式にビバップではあまりにも重すぎるし不似合いである。
そんなこんなでここ数週間の間に何枚のLPレコードを聴いたであろうか。少しでも若者向きにとそれなりに選曲をしてCDに収めてはみたが果たして息子が気に入るかどうか疑問である。年寄りには若者の嗜好を斟酌するのは難しい。 それでも自分で選曲した曲はこの上なく素晴らしい物だと思っている。何回聴いても飽きが来ない。
さて、息子は私が選曲した中からどんな曲を選ぶだろうか。結婚式当日が楽しみだ。
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