夏の想い出
昭和40年代のころ加山雄三の若大将に刺激を受けたのかセーリングボートにのめり込み毎週末、葉山のマリーナでセーリングを楽しんでいた時期がある。10年位続けたであろうか。当時は東京の武蔵小金井に住んでおり毎週葉山まで2時間かけて通っていた。
まだ週休二日制の時代ではなく日曜日だけが休日の時代であった。仕事の疲れはセーリングボートに乗ることで癒していたのかも知れない。セイリングは春4月頃より始め秋の11月頃まで続くがやはり夏が最盛期である。今は懐かしい想い出だが実に充実していた青春の時代であったような気がする。
まだ週休二日制の時代ではなく日曜日だけが休日の時代であった。仕事の疲れはセーリングボートに乗ることで癒していたのかも知れない。セイリングは春4月頃より始め秋の11月頃まで続くがやはり夏が最盛期である。今は懐かしい想い出だが実に充実していた青春の時代であったような気がする。
今、昔を思い出しもう一度セーリングを楽しみたい思いに駆られているが実現は難しいであろう。できるのは当時のセーリングの模様を思い出しながら稚拙な絵を描くぐらいだろうか。

コンピュターで描いたイラストであるが、セーリングを承知している人からみるとちょっとおかしな所があるのに気がつかれるであろう。未だ未完の絵である。

コンピュターで描いたイラストであるが、セーリングを承知している人からみるとちょっとおかしな所があるのに気がつかれるであろう。未だ未完の絵である。
エコバックの妙
地球環境保全の高まりでエコバック成る物が流行りだしている。スーパーマーケットやコンビニエンスストアで出されるビニール製のレジ袋に変わって自ら袋を持参しゴミを減らそうとの企てである。欧米ではかなり前から導入されている仕組みだが日本では昨年辺りから漸く本格的になってきたようだ。
しかしエコバックの意味を承知しないで商品として変な方向に動き出している。イギリスのエコバックメーカーであるアニヤハインドマーチ社の“I'm NOT A Plastic bag”というエコバックがとんでもないプレミヤムがついてネット上で売買されたり、大手デパートで売り出したら長蛇の列が出来て店員と小競り合いになり整理券が発行されたとのこと。もちろん即日完売になったらしい。挙げ句はアニヤハインドマーチ社から混乱を招いた事への謝罪の公告が出る始末である。
何かおかしくないだろうか。エコバックの世界にまでブランド志向が入り込んでいるのだ。日本人のブランド志向がここまできてしまうと滑稽どこらか馬鹿さ加減丸出しである。何とも浅ましく環境保全やゴミ削減の意義を問うこと自身に空しさを感じてしまいそうだ。
昔買い物に出かけるときは必ず買い物篭を持って出かけていた。子供のお使いも必ず買い物かごを持たされた。更に日本には昔から風呂敷の文化がある。まさしく今流のエコバックであった。風呂敷一枚で何でも包むことができた。私が子供の頃、風呂敷は当たり前の日常的包み道具で学校の終業式には成績表を包むために又始業式には休みの間に行った宿題の数々を包んで学校に運ぶために。とても便利なものであった。
日本には従来より「もったいない」と思う思想が文化を創ってきた。環境問題を契機に風呂敷をもう一度みなおしてみたらどうだろうか。きっと世界から風呂敷文化が賞賛されるに違いないと思うのだが。
ところで以前アメリカのスーパーマーケットでの買い物時にレジでお金を払う時「a Plastic or a Paper」と聞かれたことがある。ビニール袋にするか紙袋するかを問われたのだが日本人が言うビニールを彼らはPlastic(プラスティック)と表現する事を初めて知った。
確かにに私たちが言う所のビニール袋とはポリエチレン袋のことでありビニール製ではない。ビニールは有害であり日常品でビニールが使用されることは殆ど無いとのこと。プラスティックというのが正解のようだ。日本語が独自に変化して薄いプラステック製品を全てビニールと呼んでしまっている。
高校野球は素晴らしかった!
高校野球の決勝戦が終わると今年も夏は終わりかなと思えてくる。それだけ高校野球が夏の風物詩としての国民的行事になっているからであろう。
毎年高校野球がこれ程の人気を持つのは緊張感溢れる戦いが人々に感動を与え、そこに競技スポーツの原点を感じさせてくれるからではないだろうか。特に今年の決勝戦は余りにも劇的な大逆転で佐賀北高が優勝したことが高校野球の感動と楽しさ倍増させた感がある。
しかし最近私はスポーツの世界に違和感を感ずるようになってきた。それはテレビによるスポーツ番組のあり方に起因しているような気がする。つまりスポーツそのものが芸能化の方向に走り、実態以上の演出の中で競技スポーツが放送されているからではないかと思っている。
その典型が女子バレーボールであろうか。実力も無いのにあたかも優勝でもしそうな派手な演出と更に意味もなく芸能人らしき者が出てきて応援する姿はどうみてもテレビのやらせと何ら変わりがなく辟易とする。選手自身もまるで芸能人のような振る舞いをし、勘違いの世界を繰り広げていく。
この種のやり方は決してバレーボールだけではないオリンピック競技の中継においても同様であったし、あらゆる競技スポーツが実力を無視した派手な宣伝演出に踊らされている。野球のハンカチ王子や、ゴルフのはにかみ王子といった熱狂さの演出にも通ずるところがある。
テレビが作り出す芸能的あるいはゴシップ的なスポーツ番組の演出が続く限り競技スポーツ本来の緊張感ある真剣勝負の世界が忘れ去られ、正しい競技スポーツの楽しみ方が損なわれてしまいそうな気がしてならない。競技スポーツそのものからファンが離れていかなければ良いのだが。余計な心配であろうか・・・・・・
毎年高校野球がこれ程の人気を持つのは緊張感溢れる戦いが人々に感動を与え、そこに競技スポーツの原点を感じさせてくれるからではないだろうか。特に今年の決勝戦は余りにも劇的な大逆転で佐賀北高が優勝したことが高校野球の感動と楽しさ倍増させた感がある。
しかし最近私はスポーツの世界に違和感を感ずるようになってきた。それはテレビによるスポーツ番組のあり方に起因しているような気がする。つまりスポーツそのものが芸能化の方向に走り、実態以上の演出の中で競技スポーツが放送されているからではないかと思っている。
その典型が女子バレーボールであろうか。実力も無いのにあたかも優勝でもしそうな派手な演出と更に意味もなく芸能人らしき者が出てきて応援する姿はどうみてもテレビのやらせと何ら変わりがなく辟易とする。選手自身もまるで芸能人のような振る舞いをし、勘違いの世界を繰り広げていく。
この種のやり方は決してバレーボールだけではないオリンピック競技の中継においても同様であったし、あらゆる競技スポーツが実力を無視した派手な宣伝演出に踊らされている。野球のハンカチ王子や、ゴルフのはにかみ王子といった熱狂さの演出にも通ずるところがある。
テレビが作り出す芸能的あるいはゴシップ的なスポーツ番組の演出が続く限り競技スポーツ本来の緊張感ある真剣勝負の世界が忘れ去られ、正しい競技スポーツの楽しみ方が損なわれてしまいそうな気がしてならない。競技スポーツそのものからファンが離れていかなければ良いのだが。余計な心配であろうか・・・・・・
ぶどうの収穫
梅雨の間の長雨と日照不足で惨めな育ち方をしていたぶどうが梅雨明け後に息を吹き返したように元気に育ち始め収穫が出来るまでに成長した。鉢植えぶどうのため余り期待が持てなかったが結構甘みもあり美味しいぶどうに育っていた。ただ初めてのぶどう栽培のため余りにも多くの房を付けすぎてしまい個々の実が小さい。春の内に十分な摘果をしなかったのがいけなかったようだ。果たして来年も実を着けてくれるだろうかと心配している。

今日は猛暑日の歴史的一日 ・・・・ 暑い!!!
暑い!!兎に角暑い! 家の全ての窓を開けて風を通しても一向に気温は下がらない。ついに室内の温度が34度になってしまった。エアコンをかけたいが返って室内外との温度差が体調を崩す危険もあるため結局はエアコンもかけずに扇風機でこの暑さを凌いでいる。
我がコンピュータもこの暑さに耐えきれず途中でフリーズしてしまう。CPUの温度が上がりすぎているのだろうと小型の扇風機を当てながらだましだましに使っている状態である。
報道によると今日は日本の最高気温を更新した歴史的一日とのことだ。従来山形県が40.8度の日本記録を有していたが今日岐阜県で40.9度を記録したらしい。こんな記録は自慢の種にはならずむしろ地球温暖化の悪い兆しかと不安を感じさせてしまう。
こんな暑さの中、連日高校野球の熱戦が繰り広げられている。汗がしたたり落ちるほどの彼らの奮闘振りは見る側に感動を与え暑さを物ともしない若者達のプレイから爽やかさが伝わってくる。この猛暑の中で唯一の清涼剤であろうか。それにしても毎日暑い。
我がコンピュータもこの暑さに耐えきれず途中でフリーズしてしまう。CPUの温度が上がりすぎているのだろうと小型の扇風機を当てながらだましだましに使っている状態である。
報道によると今日は日本の最高気温を更新した歴史的一日とのことだ。従来山形県が40.8度の日本記録を有していたが今日岐阜県で40.9度を記録したらしい。こんな記録は自慢の種にはならずむしろ地球温暖化の悪い兆しかと不安を感じさせてしまう。
こんな暑さの中、連日高校野球の熱戦が繰り広げられている。汗がしたたり落ちるほどの彼らの奮闘振りは見る側に感動を与え暑さを物ともしない若者達のプレイから爽やかさが伝わってくる。この猛暑の中で唯一の清涼剤であろうか。それにしても毎日暑い。
今日は終戦記念日
今日は終戦記念日である。今年も天皇陛下ご臨席による慰霊祭が催され靖国神社には多数の政治家が参拝をする。毎年変わらない終戦記念日の光景である。しかし世の中は戦後62年を経過し大東亜戦争そのものが風化してしまっている。今や、まやかしの栄華に浮かれ立つ極めていびつな社会に様変わりしてしまっている。
憲法改正論議も盛んに行われて政争の道具に利用されながらテレビでは浅はかな芸能人による評論が聞こえてくる。戦争の悲惨さや人と人の殺し合いが劇画的に捉えられ理解しているようで理解してない低俗な安っぽい議論を聞く度にうんざりさせられてしまう。
そんな中NHKのハイビジョン放送でサイパン島の悲惨な戦争ドキュメントが「玉砕」というタイトルで放送されていた。当時の日本国の異常な姿を二度と繰り返してはならないとついつい涙して今年も又同じような終戦記念日を迎えた。
憲法改正論議も盛んに行われて政争の道具に利用されながらテレビでは浅はかな芸能人による評論が聞こえてくる。戦争の悲惨さや人と人の殺し合いが劇画的に捉えられ理解しているようで理解してない低俗な安っぽい議論を聞く度にうんざりさせられてしまう。
そんな中NHKのハイビジョン放送でサイパン島の悲惨な戦争ドキュメントが「玉砕」というタイトルで放送されていた。当時の日本国の異常な姿を二度と繰り返してはならないとついつい涙して今年も又同じような終戦記念日を迎えた。
阿久悠を悼む
作詞家の阿久悠が亡くなった。報道に寄れば五千曲を越える歌詞を書き続けてきたとのこと。ビックリするのはどれも皆聞き覚えのある歌で自然と口ずさむことのできる歌ばかりである。明らかに彼の詩が生きている証拠であろう。
阿久悠は生前不機嫌の時代に不機嫌さを無くす詩を創りたかったと述べており、飢えた心に美しい日本語で問いかけながら詩の中に物語を作り上げていた。彼の詩は後から振り返ってその時代を思い出すことのできる上質の感傷に満ちた詩である。時代を超えて大衆文化を創り上げた功績は大きい。
私は以前自らのホームページの編集後記(http://www1.seaple.icc.ne.jp/hashiken/editornote/editnote47.html)で「歌は詩と共にあり詩の持つ豊かなメッセージ性と美しいメロディーが相俟って初めて素晴らしい歌になる」と述べたことがある。歌はやはり詩が命であると考えるからである。
最近の若い歌手が唱う歌の中には全くメッセージ性も感じられず挙げ句は日本語の発音をこねくり回してとても日本語とは思えないような不明瞭な歌が多い(http://www1.seaple.icc.ne.jp/hashiken/editornote/editnote37.html)。
シンガーソングライターの流行で阿久悠のようなプロの作詞家少なくなり言葉の意味や美しさが失われてきているのだろうか。聞き取れないほどの意味のない詩が人の心を打つだろうか。日本人自身による日本語が枯れてきている今の世に歌が大衆文化として時代を語り続けるには作詞家の役割が大きいと思わざるを得ない。
稀代な作詞家である阿久悠が亡くなったことはとても残念である。
合掌
阿久悠は生前不機嫌の時代に不機嫌さを無くす詩を創りたかったと述べており、飢えた心に美しい日本語で問いかけながら詩の中に物語を作り上げていた。彼の詩は後から振り返ってその時代を思い出すことのできる上質の感傷に満ちた詩である。時代を超えて大衆文化を創り上げた功績は大きい。
私は以前自らのホームページの編集後記(http://www1.seaple.icc.ne.jp/hashiken/editornote/editnote47.html)で「歌は詩と共にあり詩の持つ豊かなメッセージ性と美しいメロディーが相俟って初めて素晴らしい歌になる」と述べたことがある。歌はやはり詩が命であると考えるからである。
最近の若い歌手が唱う歌の中には全くメッセージ性も感じられず挙げ句は日本語の発音をこねくり回してとても日本語とは思えないような不明瞭な歌が多い(http://www1.seaple.icc.ne.jp/hashiken/editornote/editnote37.html)。
シンガーソングライターの流行で阿久悠のようなプロの作詞家少なくなり言葉の意味や美しさが失われてきているのだろうか。聞き取れないほどの意味のない詩が人の心を打つだろうか。日本人自身による日本語が枯れてきている今の世に歌が大衆文化として時代を語り続けるには作詞家の役割が大きいと思わざるを得ない。
稀代な作詞家である阿久悠が亡くなったことはとても残念である。
合掌
今宵銀座ナッシュビルで
銀座にカントリーのライブハウスがある。銀座ナッシュビルという店である。先日久しぶりに訪れカントリー音楽を楽しんできた。客の多くは私と同じ年代で若い人が見当たらない。私の隣の席に居た客は大阪から来ていた客で小坂一也や寺本圭一など昔の歌手を懐かしみながら盛んに同好を求めて私に話しかけてくる。リクエスト曲もハンク・ウイリアムスのようなカントリー・クラシックが中心だ。カントリーを懐メロとして捉えるのは年寄りの証拠だろうか。しかし舞台で歌っている歌手は関谷真奈美という若い女性カントリー・シンガーで、どちらかと言えば現代のカントリー曲が中心である。当然ながらカントリーと言えども曲は時代と共に進化している。 それでも最後はリクエストに応じてハンク・ウイリアムスの「ジャンバラヤ」で締めくくられた。大いに盛り上がった。

携帯電話カメラで撮影
(もちろん許可を得て撮影いたしました)

携帯電話カメラで撮影
(もちろん許可を得て撮影いたしました)
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