チック・コーリアそれともチック・コリーア


かつてアメリカに駐在として生活をした経験がある。1970年代後半の頃である。おぼつかない英語で果たしてアメリカで生活できるのだろうかと悩みもしたが恥を覚悟で接すれば何とかなるだろう等と気楽に考え色々な人達と接するようにした。そんなある日ある会合でたまたま音楽談義になり「お前の好きな音楽は何か?」と聞かれ「ジャズが好きです」などと答えてしまった。特別ジャズに造詣があるわけでもなくどちらかと言えばカントリー&ウエスタンの方が得意なのにウッカリ「ジャズ」と言ってしまったのだ。こうなると相手はどんな曲が好きかと聞いてくる。日本を発つ前の聞きかじりでこれもウッカリ「フュージョン・ジャズが好きです」なんて言ってしまった。「フュージョン・ジャズではどんなパフォーマーが好きですか?」。どんどん深みに入って収拾がつかなくなってしまう。唯一名前を聞いたことのある「チックーリアが良いです」。「フー?」。「チック・リアです」。内心”こいつアメリカ人なのにジャズを知らないな”などと思いながら同じ会話を何回繰り返しただろうか。その内相手が「オー・ザッツ・チック・コーア」と言い出した。「コーリアもコーアも同じじゃないか!ちょっとアクセントが違うだけだろう。日本人ならどっちにアクセントがあってもちゃんと理解してくれるぞ!!!。お前ら馬鹿じゃないのか!!!。そんなこと話の流れの中で想像すれば直ぐ分かる事じゃないか!」内心では烈火の如く怒っているのだが、英語って何でこんなに難しいのかと思わせたできごとであった。


ところでジャズに興味を持ち始めたのは1970年代始め頃だっただろうか。それ以前はどちらかと言えばカントリー&ウエスタンばかりを聴いていたような気がする。ジャズを嫌っていたわけではないが昔からジャズは「素人さんお断り」のような感じがして「やたらと理屈をこねくり回す人種が聴くもの」と勝手に決めつけていた。クラッシックに至ってはもっと強烈で「教養のある人だけが聴ける音楽」の雰囲気だった(昔は大分いじけていたのかなァ・・)。そんな時にラジオから流れてきた音楽にビックリしたのがチック・コリアのジャズだった。時代の先端を行くような電子楽器が使われ全く新しいジャンルの音楽のようだった。ラジオからは相変わらず理屈をこねくり回してこのジャズの形を「フュージョン」あるいは「クロス・オーバー」と言う等と説明がされていた。この記憶がアメリカでの最初の失敗の原因となったのだ。



Return to Forever
Polydor 25MJ 3220
1972年録音
Chick Coreaは自ら率いるバンドのグループ名ををReturn To Foreverとして数多くのレコードを出している。このレコードは1972年スウイング・ジャーナル誌の大賞(金賞)を取りフュージョン・ジャズ(クロスオーバー・ジャズ)の先駆けとなったレコードと言われている。B面のSOME TIME AGO - LA FIESTAは圧巻である。メロディ性が高く旋律が日本人好みなのが良い。JOE FARRELLのフルートが尺八かと思わせる部分もあり私のような素人ジャズファンにピッタリである。

Light as Feather
Polydor PD5525 (2310 247)
1972年録音
A 面一曲目のYou're EverythingとB面一曲目の500 Miles HighはFlora Purimの歌が素晴らしい。更にChick Coreaの名前を高めたB面三曲目のSpainが何とも言えないラテン的雰囲気を醸し出し素晴らしい。特に Joe Farrellのフルート Stanley Clarkeのベースが最高!!!!
Chick Corea
Crystal Silence
ECM1024ST
1972年録音
Chick CoreaとGary Burton(Vib)との競演によるもの。全てChick Coreaの作品である。



年寄りの独白

歳のせいかあるいは余りにも日々暇のせいかどうでも良いことが何となく気になりイライラが募ってくる。外出時バスに乗ると停留所に止まる度に運転手は「バスが停止してから席をお立ち下さい」とアナウンスしてくれる。一見危険防止でとても親切そうだが、そこまで言うなら乗車したときにも言うべきではないか!むしろ危険なのは乗車時なのだから。何故なら乗車した途端にバスは動き出しているではないか(危ないったらありゃしない!!)。駅のアナウンスでは電車がホームに入ってくる度に白線の内側までお下がり下さいと言う。安全上当然の注意喚起である。でもラッシュ時にはホームに人が溢れているのです。なのに駅員は人混みを整理するわけでもなくただ「白線までお下がり下さい」とアナウンスしている(白線の外側に人が一杯いるではないかァ・・・)。車内のツリ広告を見ると自分の会社を宣伝しているのにまるで人ごとのような無責任宣伝が目に付いてくる(この会社正しい日本語教育されているのだろうか?)。町のレストランに行けば店の名前を平気で「・・・賢人」などと出している店がある(自らを賢人なんて偉そうな事言うな!!)。どうなっているのだろうか。家に居ればひっきりなしにセールス電話がかかってくる。興味が有りませんと答えると突然ガッチャンと電話を切られる。終いには「もしもし」と言っても応えてくれない一方的な録音された電話までかかってきてしまう。お菓子屋さんの不二屋がおかしい。テレビ番組は捏造で視聴者が踊らされている。世の中ちょっとおかしくないであろうか?すべからく奢りの社会になりつつある。馬鹿にされている感じである。

知に働けば角が立つ
情に竿射せば流される
意地を通せば窮屈だ
兎に角此の世は住みにくい

という夏目漱石の草枕に有名な一節があるが、知を働かす事も情に竿射すことも、意地を通すことも何か馬鹿馬鹿しくなってきた時代のようだ。でもこんな事を言うのはやはり年寄りの証拠かな?こんな年寄りが世間では最も始末が悪いのかも知れない。反省はしているのだが・・・・・・

青春のアイドル・私のプレスリー

テレビが未だ珍しい時代、我が家の唯一のエンターテイメントはラジオであった。蓄音機を買ってもらえるほどの裕福な家庭ではなかったので聴く音楽は全てラジオからである。流れてくるのは当然歌謡曲が中心であったが何回も聴いている内にいつの間にか諳んじてしまい、小学生のくせに「粋な黒塀見越しの松に〜〜」「月がとっても青いから〜〜」などと意味も分からず学校で歌ったりしては先生に叱られていた。しかし学年が進むにつれ今までとは違う音楽が頻繁にラジオから聞こえてくるようになる。いわゆるアメリカン・ポップスである。カントリーやロックンロールそしてロカビリー、ジャズと言うような日本語ではなく英語の世界の音楽である。就寝時間が少しずつ遅くなるにつれ聞こえてくる音楽も代わってきていたのであろうか、少しずつ大人に近づいているような感覚であった。もちろん当時は音楽のジャンルなど知る由もなくとにかく歌謡曲とは全く違う異質な新しい文化に触れたような思いであった。そんな時代に最初に耳にしたエルビス・プレスリーの「ハートブレークホテル」は余りにも強烈で、今までにないリズムに自然と躰が揺れてしまうようなインパクトを感じたのであった。プレスリーは日本の若者にロカビリーのなるものを知らしめた歌手であったかもしれない。「もはや戦後ではない」などと言われた昭和30年代初め頃漸く日本の若者達に新しい文化が生まれようとしていた時代ある。プレスリーの影響は大きい。その代表格が日劇ウエスターン・カーニバルであろうか。もともとカントリ・アンド・ウエスタンからスタートしていたがプレスリーのロックンロールやロカビリーに刺激され日劇ウエスターン・カーニバルになってから一大ロカビリーブームを巻き起こしたのである。ロカビリーとはロックンロールとヒルビリー(カントリー)が融合したスタイルである。別な言い方をすれば黒人の歌と白人の歌が融合したと言っても良いかもしれない。以後大人からはひんしゅくを買いながらもその流れは留めようもなくアメリカンポップスが次から次へと流れ込み、ニールセダカ、ポールアンカ、カテリーナバレンテ、コニーフランシス等々・・・。それをカバーするが如く小坂一也、平尾昌明、山下敬二郎、尾藤イサオ、坂本九、水原 ひろし、井上 ひろし、守屋 浩、飯田久彦、佐々木功、森山加世子といったロカビリーアイドルが次から次へと出てきたのである。一種独特の雰囲気を醸し出していたそんな時代に私も今流で言うミーハー族であったのだろうか、プレスリーの歌を聴く度に昔の自分を思い出す。
当時の若者文化は余りにもプレスリーの影響が大きい。私にとってもプレスリーは青春のアイドルであったのだ。

どんど焼き


我が町の正月恒例「どんど焼き」が昨日行われた。どんど焼きは正月行事として通常小正月の1月15日に行うのが常であったが国民の祝日であった成人の日が第2週の月曜日と定められたため1月15日前後の週末に行われるようになった。年々正月行事も言葉だけが残り行事そのものの意味が忘れられていくような感じで淋しいが何とか毎年続けて貰いたいものだ。それにしても集まってくる人達は殆ど高齢者であることが気にかかる。団地の年代層が高齢化し若い人が極端に少ない。昭和50年前後に夢の一戸建てを購入し既に30年余りを過ぎている。第二世代は結婚し家を出て核家族化し残るは老夫婦のみというのもやむを得ないが、例え高齢化しても町の活気だけは保ち続けて行きたいものだ。


どんど焼き

スキー旅行



八方尾根にスキー旅行に出かけてきた。この歳でスキーが出来るとは思いも依らなかったが数年前から再開させ冬の楽しみにしている。かつて冬の花形スポーツとして毎年楽しんできたスキーであったが子供達の成長と冬の遊びの多様化が進むにつれすっかり遠ざかっていた。還暦を過ぎて二度とスキーなどすることは無いだろうと思っていたのに数年前に友人から誘いを受け、スキーを再開させたのである。仲間は今年70歳に成ろうとするリーダーを中心に平均年齢66歳のシニアグループである。八方尾根の第一ケルンから兎平、リーゼンコース、あるいは北尾根スカイラインコースやパノラマコースとシニアとは思えないダイナミックな滑りを満喫してきた。もちろん体力は若い人達に比べようもないので昼食を挟み午前と午後には必ず休憩時間を入れている。周囲の心配も余所に次は2月に北海道でのスキー旅行が計画されている。とても楽しみである。



八方スキー

白馬連山 (八方尾根第一ケルンより望む)
右から白馬岳、杓子岳、白馬鑓ヶ岳
初日は天候に恵まれ素晴らしい白馬連山を望むことができた。

鎌倉八幡宮へ初詣


今日は朝から雨である。天気予報に依れば大荒れの嵐になるらしい。それならばと初詣に鎌倉八幡宮へ車で出かけてみた。この天気なら人出も少なく車も簡単に駐車できるであろうとの読みがあってのことである。確かに未だ1月6日松の内にしては人出は少ない。しかし私と同じ考えをする者が多いのか近辺の駐車場は何れも満杯で駐車場を探すのに苦労させられた。何もこんな嵐の日に初詣なんかしなくてもよいのに等と自らの浅はかさを棚に上げてぼやきつつも漸く駐車場を探し駐車できた。ならば折角の雨、八幡宮まで段葛の上を歩くのも風情があろうと思い入ってみた。何と水溜まりだらけで歩くこともまま成らない状態だった。人出が少なく見えたのはこの水溜まりのせいであったのだ。風情どころか恨めしい雨に変わっていたのである。それでも本殿に続く階段には色とりどりの傘の花が咲き、ここだけは雨も又良いものだと感じさせてくれた(何となく無理矢理納得している感もないではないが)。

昨年のお札や破魔矢を返納し、お賽銭をと思いポケトを探ると100円玉が無く1円玉が数枚。1円玉でお願い事をするのも何とも気が引けるしされど千円札を投げ込むほど贅沢できる身分ではない。やむなく先に破魔矢とお札を買い100円玉を準備してから参拝した。2礼、2拍,1礼 今年こそは良い年でありますようにと願いつつ・・・・・・


初詣01
携帯電話のカメラにて撮影

毎年繰り返す穏やかな正月

新年の日の出の写真をと思い大晦日から準備をしていたが大晦日までの肉体労働が過酷(?)だったのか、はたまたNHK紅白歌合戦が目覚めを悪くさせたのか丁度良い時間に目が覚めず今年も又日の出写真を撮る機会を失ってしまった。早朝はとても良い天気できっと素晴らしい日の出の写真が撮れたはずなのに!!!。残念至極!!。こんなことを何年続けているのだろうか。これでは一生日の出写真は撮れないかも知れない。でも今年の正月はとても穏やかだった。横浜地方では昼頃に局地的ではあるが俄雨が降り出したものの暖かい穏やかな正月であった。大掃除した甲斐もあり気分も爽快である。その甲斐あってか久しぶりに揃う正月の家族での団欒は酒も進み楽しいの一言である。なんと言ってもおせち料理は酒の肴にピッタリであり、酒の終わりに続くお雑煮が是また嬉しい。しかし我が家では余り雑煮は歓迎されていないようだ。息子達は正月行事の一環として食しているだけで何となくお付き合いで食べている感じである。この世の中でこれ程美味しい食べ物は無いと思うのだが時代が変わってしまったのだろうか。お雑煮のない正月なんて想像もできないし、戦後の食糧事情の悪い時期でも苦労して雑煮だけは欠かさなかったのに時代とはこんなに変化してしまったのだろうか。酒が進み雑煮を美味しく食べ終えて何となくレコードも聴きたくなるのもやはり正月のせいだろうか?滅多に聴かないクラシック曲のレコードを探してみた。あった!!!正月にピッタリのクラシック曲!!ヴィヴァルディ作曲の「四季」である。それもイムジチによる演奏である。素晴らしいではないか!でも聴いている内に何となく自ら古い世界に入り込んでしまっている感覚を憶えてしまう。年寄りの”ひがみ”だろうか・・・・・・・・。



PHILIPS STEREO X-8502 (6500 877)
I MUSICI
Felix Ayo (Violin)
1959年4月29日 ウイーンにて録音