今日のレコード その(1) Oscar Peterson REUNION BLUES
以前「今日のLPレコード」として所有LPレコードを紹介すると述べたが何から紹介して良いのか分からずそのままになっていた。今日久し振りにLPレコードを取り出して聴いてみたのでそのレコードから紹介をしてみたい。

Oscar Peterson REUNION BLUES
PAUSA RECORDS PR7099
私の家内はミルトジャクソンのヴァイブ(Vibraphone)が好きでかつてMJQのレコードを良く聴いていた。ここに紹介するのはOscar PetersonがヴァイブのMilt Jackson、ドラムスのLouis Hayes、ベ−スのRay Brownを従えたクインテットによる演奏である。これをかけると家内はやはりMilt Jacksonのヴァイブ演奏に酔いしれてしまう。
Oscar Petersonは昨年12月に此の世を去ったが彼のピアノ演奏は他が追従できないほどの技巧派ピアニストである。私の最も好きなピアニストの一人だがその技巧が時によっては煩く感ずる時さえもある。しかしこのレコードでは結構自らを抑え気味に演奏しておりそれが全体としてしっとりとしたブルースを奏でる効果をあげている。タイトルを「REUNION BLUES」としたのはメンバーがかつて共に演奏してきた仲間であったがそれぞれが別々の方向に進みこのレコード演奏のために再会を果たしたとゆうことらしい。かつてVerveレコードで同じメンバー(但しドラムスはEd ThigpenからLoise Hayesに代わっている)で「Very Tall」と言うアルバムを出している。それ以来の再会と言うことだ。
A面の3曲目に「Someday My Prince Will Come {いつか王子様が}」と言う曲がある。多くのジャズメンが演奏しておりMiles Davisもこの曲を演奏しているが、しかし私にはOscar Petersonによるこの演奏がベストの様な気がする。出だしがミルトジャクソンのヴァイヴから始まり素晴らしい。長男の結婚式のバックグランドミュージックの一つとしてこの曲を入れて貰ったくらいだ。B面の2曲目「When I Fall In Love」も同じような曲だがオスカーの抑え気味のピアノが良い。
このレコードではMilt Jacksonが作曲したB面のReunion Bluesがタイトル曲となっていることを考えるとMilt Jacksonを飽くまでもフィーチャーしたレコードと言えるかも知れない

Oscar Peterson REUNION BLUES
PAUSA RECORDS PR7099
Oscar Petersonは昨年12月に此の世を去ったが彼のピアノ演奏は他が追従できないほどの技巧派ピアニストである。私の最も好きなピアニストの一人だがその技巧が時によっては煩く感ずる時さえもある。しかしこのレコードでは結構自らを抑え気味に演奏しておりそれが全体としてしっとりとしたブルースを奏でる効果をあげている。タイトルを「REUNION BLUES」としたのはメンバーがかつて共に演奏してきた仲間であったがそれぞれが別々の方向に進みこのレコード演奏のために再会を果たしたとゆうことらしい。かつてVerveレコードで同じメンバー(但しドラムスはEd ThigpenからLoise Hayesに代わっている)で「Very Tall」と言うアルバムを出している。それ以来の再会と言うことだ。
A面の3曲目に「Someday My Prince Will Come {いつか王子様が}」と言う曲がある。多くのジャズメンが演奏しておりMiles Davisもこの曲を演奏しているが、しかし私にはOscar Petersonによるこの演奏がベストの様な気がする。出だしがミルトジャクソンのヴァイヴから始まり素晴らしい。長男の結婚式のバックグランドミュージックの一つとしてこの曲を入れて貰ったくらいだ。B面の2曲目「When I Fall In Love」も同じような曲だがオスカーの抑え気味のピアノが良い。
このレコードではMilt Jacksonが作曲したB面のReunion Bluesがタイトル曲となっていることを考えるとMilt Jacksonを飽くまでもフィーチャーしたレコードと言えるかも知れない
衝動買いのJazz CD
先日銀座山野楽器で輸入盤Jazz CDのセールが行われていたので衝動買いで4枚購入した。今まで LPレコードを好んで聴き懐古趣味的ノスタルジーに浸ってきたがやはりどう考えてもCDの方が便利で聴きやすい。
LPレコードはかつてオーディオ的興味で購入したものばかりで特定ジャンルを系統立って購入してきたわけではなく揃え方にも脈略がない。もちろん好きなカントリーはオーディオ的価値はないがJAZZのLPレコードはオーディオとしての面白さで購入したものばかりだ。
しかし考えてみたら音の善し悪しまで判断できる程のオーディオシステムを所有していたわけでもなくましてや小さな家屋で外への音漏れを気にしながら聴かなければない我が家では立派なシステムを揃える価値もなく音の質を聞き分けるにはほど遠い環境なのだ。であればむしろCDで気楽に楽しむ方が利に叶っている。
我が家では未だに古いオーディオシステムを騙し騙し使用しているがそれでも充分機能してくれている。
そんなわけで最近は好んでCDを購入しそれもJAZZCDが多い。
そのためかJAZZの面白さがちょっとだけ分かって来たような気がする
評論家の植草甚一が元々モダンジャズはほかの人から教えられて好きに成っていくような性質のものではなく、ふとしたある瞬間、まだ経験したことのないような新しい興奮をあじわったことから、しぜんと好きに成っていくものです。(植草甚一モダンジャズのたのしみ 晶文社)と言っていたのが思い出される。
私もそんな気がしてならない。
因みに今回購入したCDは
1/ JOHN COLTRANE BLUE TRAIN BLUE NOTE
2/ RELAXINユWITH THE MILES DAVIS QUINTET PRESTAGE
3/ THE SCENE CHANGES BUD POWELL BLUE NOTE
4/ MAIDEN VOYAGE HERBIE HANCOCK BLUE NOTE
である。いずれも名盤であり何回聴いても飽きの来ない名演奏であるがそれにしてもちょっと古すぎたかなァ・・・・・。。
LPレコードはかつてオーディオ的興味で購入したものばかりで特定ジャンルを系統立って購入してきたわけではなく揃え方にも脈略がない。もちろん好きなカントリーはオーディオ的価値はないがJAZZのLPレコードはオーディオとしての面白さで購入したものばかりだ。
しかし考えてみたら音の善し悪しまで判断できる程のオーディオシステムを所有していたわけでもなくましてや小さな家屋で外への音漏れを気にしながら聴かなければない我が家では立派なシステムを揃える価値もなく音の質を聞き分けるにはほど遠い環境なのだ。であればむしろCDで気楽に楽しむ方が利に叶っている。
我が家では未だに古いオーディオシステムを騙し騙し使用しているがそれでも充分機能してくれている。
そんなわけで最近は好んでCDを購入しそれもJAZZCDが多い。
そのためかJAZZの面白さがちょっとだけ分かって来たような気がする
評論家の植草甚一が元々モダンジャズはほかの人から教えられて好きに成っていくような性質のものではなく、ふとしたある瞬間、まだ経験したことのないような新しい興奮をあじわったことから、しぜんと好きに成っていくものです。(植草甚一モダンジャズのたのしみ 晶文社)と言っていたのが思い出される。
私もそんな気がしてならない。
因みに今回購入したCDは
1/ JOHN COLTRANE BLUE TRAIN BLUE NOTE
2/ RELAXINユWITH THE MILES DAVIS QUINTET PRESTAGE
3/ THE SCENE CHANGES BUD POWELL BLUE NOTE
4/ MAIDEN VOYAGE HERBIE HANCOCK BLUE NOTE
である。いずれも名盤であり何回聴いても飽きの来ない名演奏であるがそれにしてもちょっと古すぎたかなァ・・・・・。。
ザッツ・エンタテイナー
今日ミュージカル俳優として世界的に有名なライザ・ミネリのライブショーをNHKのハイビジョン放送で観た。「ザッツ・エンタテイナー」と言う番組である。エンタテイナーとは何をすることなのかを実に見事に見せてくれた素晴らしいショーであった。
体中で唱う彼女の歌は聴衆を魅了し次ぎから次へと流れるように繰り出される歌の数々は聴く側に迫力を感じさてくれた。
舞台の彼女の姿を見ていると心から聴衆を楽しませようとする(エンターテインさせようとする)本物のプロの心意気が伝わって来て「これぞまさしくエンタテイナー」であることを実感さてくれる。
見終わって暫く余韻の残る良質の番組であった。
この番組は1995年にNHKホールで行われた物だが、最近のNHKの不祥事が問題になっている折りこの種の番組を放送するNHKに敬意を表したい。
ところで彼女の歌を聴いていて思うのは詩のリズムと言葉のアクセントがメロディー・ラインと見事に一致していることに気がつく。言葉の意味が分からなくとも歌そのものに躍動感を感じさせてくれるのだ。これはやはりプロの作曲家と作詞家の所業による賜物であろうが、ある意味では英語であるが故の為し得ることなのかも知れない。何故ならば英語は日本語と違い必ず言葉には強いアクセントがあり日本語のようにアクセントが曖昧ではない。英語はアクセントを間違えると言葉として通用しなくなるためアクセントにメロデーを一致させなければならないからである。
最近日本ではシンガー・ソング・ライターと称して盛んにメディアに登場してくるがメロディー・ラインがフラット(平坦)で、ひどい場合には字余りな歌さえ出てくる始末である。日本語であるが故に許されるのかも知れないが発想が余りにも貧困である。最近日本で心に残る歌が出現しない大きな要因であろうか。
体中で唱う彼女の歌は聴衆を魅了し次ぎから次へと流れるように繰り出される歌の数々は聴く側に迫力を感じさてくれた。
舞台の彼女の姿を見ていると心から聴衆を楽しませようとする(エンターテインさせようとする)本物のプロの心意気が伝わって来て「これぞまさしくエンタテイナー」であることを実感さてくれる。
見終わって暫く余韻の残る良質の番組であった。
この番組は1995年にNHKホールで行われた物だが、最近のNHKの不祥事が問題になっている折りこの種の番組を放送するNHKに敬意を表したい。
ところで彼女の歌を聴いていて思うのは詩のリズムと言葉のアクセントがメロディー・ラインと見事に一致していることに気がつく。言葉の意味が分からなくとも歌そのものに躍動感を感じさせてくれるのだ。これはやはりプロの作曲家と作詞家の所業による賜物であろうが、ある意味では英語であるが故の為し得ることなのかも知れない。何故ならば英語は日本語と違い必ず言葉には強いアクセントがあり日本語のようにアクセントが曖昧ではない。英語はアクセントを間違えると言葉として通用しなくなるためアクセントにメロデーを一致させなければならないからである。
最近日本ではシンガー・ソング・ライターと称して盛んにメディアに登場してくるがメロディー・ラインがフラット(平坦)で、ひどい場合には字余りな歌さえ出てくる始末である。日本語であるが故に許されるのかも知れないが発想が余りにも貧困である。最近日本で心に残る歌が出現しない大きな要因であろうか。
戦後日本のジャズ文化
面白い本を読んだ。アメリカ人の書いた日本文化論でジャズが日本の文化にどのように受容されて来たかを文化的視点から透視した評論本である。題名が「戦後日本のジャズ文化」とあり著者はマイク・モラスキーとある。最近読んだ本の中では実に中身の濃い評論本だ。ビックリするのは著者がアメリカ人でありながら日本語で綴っているところにある。それも実に丁寧に分かりやすく日本語を綴っている。
この本は所謂ジャズ評論本とは全く異なりジャズそのものを論じているのではなくジャズが日本文化にどのような影響を与え受け入れられたのかを論じている点にユニークさがある。
戦後の日本においてジャズという即興音楽を一つのモダニズムとして捉え当時の文化人や若者達にもてはやされ映画や小説等の媒体に盛んに題材として取り入れられてきた。戦後間もない時期には黒澤明の「酔いどれ天使」に見られるようにジャズが低層の汚れたものの象徴として捉え、その後アートブレーキーの日本公演をきっかけに本格的なジャズ(モダンジャズ)が普及するにつれセロニアスモンクの名言「ジャズと自由は手をつないでやってくる」という言葉を五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」の中でセリフとして活用され 石原慎太郎の言葉として「ジャズは・・・・自由という観念に集約される」を紹介したり、1960年以降ジャズそのものが自由という比喩に多用されてきたことを掘り下げている。
更に1960年代以降に流行ったジャズ喫茶を取り上げ自身もジャズ喫茶ファンでありながらも規律と厳粛さを求めた当時の教条的なジャズ喫茶のあり方にあえて批判を試みている。ジャズは本来即興音楽であるとすればその音楽はその場の一回限りの演奏に意味があり既に録音された同じ演奏を繰り返し聞くことへの矛盾を述べ、生の演奏を聞くことにジャズの本質があると説いている。
また当時のジャズ喫茶はモダンジャズとりわけフリージャズの到来でジャズそのものが既成の殻を打ち破る破壊的精神つまりアナーキなものとしてとらえられた。そのためジャズ喫茶には左翼的な活動家や犯罪者の立ちより所にもなり社会一般から敬遠すべき存在にもなっていた事にも触れている。
大江健三郎の小説「セブンティーン」でも主人公がジャズ喫茶に出入りする内容なども紹介し、当時の先鋭的知識人の作品や行動から詳細な事例を取り上げジャズの文化的影響を取り上げている。青臭い青春時代を同時期に過ごしてきた私にとってはある種のノスタルジー的感覚を憶えジャズを視点にしての文化論として実に希有な作品と言える。
著者紹介によるとマイク・モラスキ−氏はミネソタ大学の准教授で日本文学の博士号を有し日本への留学経験もある。自身もジャズピアニストとして日本のジャズライブハウスに出演することもあるとのことだ。

この本は所謂ジャズ評論本とは全く異なりジャズそのものを論じているのではなくジャズが日本文化にどのような影響を与え受け入れられたのかを論じている点にユニークさがある。
戦後の日本においてジャズという即興音楽を一つのモダニズムとして捉え当時の文化人や若者達にもてはやされ映画や小説等の媒体に盛んに題材として取り入れられてきた。戦後間もない時期には黒澤明の「酔いどれ天使」に見られるようにジャズが低層の汚れたものの象徴として捉え、その後アートブレーキーの日本公演をきっかけに本格的なジャズ(モダンジャズ)が普及するにつれセロニアスモンクの名言「ジャズと自由は手をつないでやってくる」という言葉を五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」の中でセリフとして活用され 石原慎太郎の言葉として「ジャズは・・・・自由という観念に集約される」を紹介したり、1960年以降ジャズそのものが自由という比喩に多用されてきたことを掘り下げている。
更に1960年代以降に流行ったジャズ喫茶を取り上げ自身もジャズ喫茶ファンでありながらも規律と厳粛さを求めた当時の教条的なジャズ喫茶のあり方にあえて批判を試みている。ジャズは本来即興音楽であるとすればその音楽はその場の一回限りの演奏に意味があり既に録音された同じ演奏を繰り返し聞くことへの矛盾を述べ、生の演奏を聞くことにジャズの本質があると説いている。
また当時のジャズ喫茶はモダンジャズとりわけフリージャズの到来でジャズそのものが既成の殻を打ち破る破壊的精神つまりアナーキなものとしてとらえられた。そのためジャズ喫茶には左翼的な活動家や犯罪者の立ちより所にもなり社会一般から敬遠すべき存在にもなっていた事にも触れている。
大江健三郎の小説「セブンティーン」でも主人公がジャズ喫茶に出入りする内容なども紹介し、当時の先鋭的知識人の作品や行動から詳細な事例を取り上げジャズの文化的影響を取り上げている。青臭い青春時代を同時期に過ごしてきた私にとってはある種のノスタルジー的感覚を憶えジャズを視点にしての文化論として実に希有な作品と言える。
著者紹介によるとマイク・モラスキ−氏はミネソタ大学の准教授で日本文学の博士号を有し日本への留学経験もある。自身もジャズピアニストとして日本のジャズライブハウスに出演することもあるとのことだ。

オスカー・ピータソンが逝く(2)
オスカー・ピータソンの死亡広告が12月25日付け日経新聞の夕刊に掲載されていた。その中に以下のような表現があった。「・・・・・1950年代に白人が主流だった欧米の音楽界で成功を収めた数少ない黒人音楽家の一人・・・・・」
これを読んでとても違和感を感ずるのだが如何であろうか。
白人が主流だった欧米の音楽界とはどんな音楽界の事を指すのだろうか。クラシックをも含めた広義での世界か、あるいはジャズという一つの狭義なジャンルの世界か、どちらだろうか。ジャズとクラシックを同じ土俵の上で比べるのは余りにもナンセンスであり新聞記者であれば其処まで幼稚なことはしないであろうと思うのだが。しかしオスカーピーターソンはジャズに興味のある人ならだれでも承知しているジャズピアニストである。ジャズ以外の世界で彼が活躍していたとは思えないし記憶もない。
1950年代の音楽の世界で言えばジャズを含めたポップスが主流を占めその中でモダンジャズそのものが新しい時代の音楽として流行りだした頃である。今までのラグタイムやデキシーランドそしてスウィングのダンス音楽から更に進歩させ従来の型にはまった音楽理論から離れコードという記号化した楽譜によって自由に即興的に演奏するスタイルを生み出したのは黒人ミュージッシャンでありその代表がチャーリーパーカーやバドパウエル、ジョンコルトレーン、マイルスデービスと言ったいずれも黒人ミュージッシャンである。当時のモダニズムとしての新たなジャズ(モダンジャズ)の誕生である。
少なくともジャズの世界でこの時期に白人が主流であったとは思えない。スウィング全盛の時期であればグレンミラーやベニーグッドマンと言った白人バンドが名を馳せたがその時期でさえも黒人バンドであるデュークエリントやカウントベーシーと言った黒人バンドが活躍している。確かに当時は黒人差別が激しく黒人バンドが活躍できる場は限られていたがむしろ黒人ミュージッシャンが若い白人達に受け入れられ次第に差別化を開放させる方向へ少しずつではあるが向かわせた功績は高い。
1950年代に白人がモダンジャズの世界で名を馳せた人は思い浮かばない。後になってクールジャズやウエストコーストジャズの世界では黒人に対抗してチェットベーカーやリーコニッツのような白人ミュージッシャンが多く世に出たがやはりそのスタートは黒人である。
ジャズは元を正せば黒人のブルースから発展してきた物であると言われている。つまり黒人的ブルース感があってこそジャズがジャズとして成立するのかも知れない。日本人にジャズが分かるはずがないと言った黒人ミュージッシャンがいると聞く。根拠は此のブルースにあるのかもしれない。でありながらも現代では異人種(日本人やヨーロッパ人など)によるジャズミュージッシャンは多数輩出している。彼らはやはり当初ブルースというものに自らの自己矛盾を感じながら自国の環境の中でブルース感覚とは何かを悩みながら努力してきているのである。そのように考えると少なくともジャズの世界では現代においてもやはり黒人が主流であろう。新聞の「白人が主流であった」とは何を意味するのか私には理解できない。
ただ一つ言えることは1950年代の日本は欧米特にアメリカから伝わってきた音楽は全てジャズと形容していた事実がある。もちろん当時はまだ戦後でありアメリカからの音楽が民主主義の象徴のようなとらえ方であった。カントリーもハワイアンもポップスも全てジャズとして一括りされていた時代であったのだ。江利チエミや雪村いずみが唱う西洋的(?)なポップスは全てジャズであり笠置シズ子のブギでさえもジャズであったのだ。そう考えれば日本人として考える当時の世界のジャズ音楽界は欧米から移入された音楽を中心として白人が主流であったと言えなくもない。しかし今の時代に其処まで時代錯誤をする人がいるだろうか。
重箱の隅をつっつくようだがこの新聞記事にはどうしても疑問を感じ得ないのである。
これを読んでとても違和感を感ずるのだが如何であろうか。
白人が主流だった欧米の音楽界とはどんな音楽界の事を指すのだろうか。クラシックをも含めた広義での世界か、あるいはジャズという一つの狭義なジャンルの世界か、どちらだろうか。ジャズとクラシックを同じ土俵の上で比べるのは余りにもナンセンスであり新聞記者であれば其処まで幼稚なことはしないであろうと思うのだが。しかしオスカーピーターソンはジャズに興味のある人ならだれでも承知しているジャズピアニストである。ジャズ以外の世界で彼が活躍していたとは思えないし記憶もない。
1950年代の音楽の世界で言えばジャズを含めたポップスが主流を占めその中でモダンジャズそのものが新しい時代の音楽として流行りだした頃である。今までのラグタイムやデキシーランドそしてスウィングのダンス音楽から更に進歩させ従来の型にはまった音楽理論から離れコードという記号化した楽譜によって自由に即興的に演奏するスタイルを生み出したのは黒人ミュージッシャンでありその代表がチャーリーパーカーやバドパウエル、ジョンコルトレーン、マイルスデービスと言ったいずれも黒人ミュージッシャンである。当時のモダニズムとしての新たなジャズ(モダンジャズ)の誕生である。
少なくともジャズの世界でこの時期に白人が主流であったとは思えない。スウィング全盛の時期であればグレンミラーやベニーグッドマンと言った白人バンドが名を馳せたがその時期でさえも黒人バンドであるデュークエリントやカウントベーシーと言った黒人バンドが活躍している。確かに当時は黒人差別が激しく黒人バンドが活躍できる場は限られていたがむしろ黒人ミュージッシャンが若い白人達に受け入れられ次第に差別化を開放させる方向へ少しずつではあるが向かわせた功績は高い。
1950年代に白人がモダンジャズの世界で名を馳せた人は思い浮かばない。後になってクールジャズやウエストコーストジャズの世界では黒人に対抗してチェットベーカーやリーコニッツのような白人ミュージッシャンが多く世に出たがやはりそのスタートは黒人である。
ジャズは元を正せば黒人のブルースから発展してきた物であると言われている。つまり黒人的ブルース感があってこそジャズがジャズとして成立するのかも知れない。日本人にジャズが分かるはずがないと言った黒人ミュージッシャンがいると聞く。根拠は此のブルースにあるのかもしれない。でありながらも現代では異人種(日本人やヨーロッパ人など)によるジャズミュージッシャンは多数輩出している。彼らはやはり当初ブルースというものに自らの自己矛盾を感じながら自国の環境の中でブルース感覚とは何かを悩みながら努力してきているのである。そのように考えると少なくともジャズの世界では現代においてもやはり黒人が主流であろう。新聞の「白人が主流であった」とは何を意味するのか私には理解できない。
ただ一つ言えることは1950年代の日本は欧米特にアメリカから伝わってきた音楽は全てジャズと形容していた事実がある。もちろん当時はまだ戦後でありアメリカからの音楽が民主主義の象徴のようなとらえ方であった。カントリーもハワイアンもポップスも全てジャズとして一括りされていた時代であったのだ。江利チエミや雪村いずみが唱う西洋的(?)なポップスは全てジャズであり笠置シズ子のブギでさえもジャズであったのだ。そう考えれば日本人として考える当時の世界のジャズ音楽界は欧米から移入された音楽を中心として白人が主流であったと言えなくもない。しかし今の時代に其処まで時代錯誤をする人がいるだろうか。
重箱の隅をつっつくようだがこの新聞記事にはどうしても疑問を感じ得ないのである。



